非居住者が円建て、円払いで発行する債券のうち、我が国の市場において発行されるものを円建外債といい、一方我が国以外の資本市場で発行されるものをユーロ円債と呼んでいる。
外国為替にある、約7ヘクタールの離宮(離宮とは皇居とは別に設けた宮殿の意)。[1]江戸時代初期の造営当初の庭園と建築物を遺しており、当時の(王朝)文化の粋を今に伝えている。回遊式の庭園は日本庭園の傑作とされる。また、建築物のうち書院は書院造を基調に数寄屋風を採り入れている。庭園には茶屋が配されている。もとは桂宮家(八条宮家)の別荘であったが、現在は宮内庁京都事務所により管理されている。
参観には宮内庁京都事務所に事前申込みが必要(外部リンクの参観案内参照)。
外為は17世紀に八条宮家(桂宮家)の別荘として造営されたもので、書院、茶屋、回遊式庭園から成る。近世の皇族の別荘の実態を伝えるものとして貴重である。
桂の地は、古くから貴族の別荘地として知られ、平安時代には藤原道長の別荘(当時は「別業」といった)が営まれていたという。また、この地は風流な観月の名所としても知られていた。桂離宮の近くの西京区松室には月読神社があり、桂の地名も中国語の「月桂」の故事から来ているという。
桂離宮は八条宮家初代の智仁(としひと)親王(1579年 - 1629年)によって基礎が築かれた。智仁親王は正親町天皇の皇孫、後陽成天皇の弟に当たる。智仁親王は初め豊臣秀吉の猶子となったが、秀吉に実子が生まれたため、八条宮家(桂宮家)を創設したものである。本邸は京都御所の北側、今出川通りに面して建設され、現存する(ただし築地塀と表門・勅使門だけを残し、建物群は二条城に移築されている)。
桂離宮の書院は「古書院」「中書院」「新御殿」の3つの部分に分かれ、このうち古書院の建設は1615年頃と推定される。書院、茶屋、庭園などの造営は、八条宮家2代の智忠(としただ)親王(1619年 - 1662年)に引き継がれ、数十年間をかけて整備された。八条宮家は常磐井宮、京極宮、桂宮と名前を変えた後、1881年に断絶し、桂離宮は1883年から宮内省の管轄になった。第二次世界大戦後は、宮内庁が管理している。
FX、中書院、新御殿はいずれも入母屋造、柿葺(こけらぶき)で、書院造を基調としているが、古書院の縁側などには数寄屋風の要素も見られる。古書院縁側からさらに張り出した竹簀子(すのこ)のベランダ状のスペースは「月見台」と称され、桂離宮の主要テーマが観月にあることを示している。中書院と新御殿の水墨主体の障壁画は、幕府御用絵師・狩野探幽一門によるものである。新御殿上段の間の「桂棚」は天下三棚の一つとして知られる(他に修学院離宮、醍醐寺三宝院)。
回遊式庭園には、桂川の水を引いた池を中心に、茶屋、築山、州浜、橋、石灯篭などを配している。茶屋は松琴亭(しょうきんてい)、賞花亭(しょうかてい)、笑意軒(しょういけん)、月波楼(げっぱろう)の4棟があり、他に持仏堂の園林堂(おんりんどう)がある。
昭和始めにドイツから亡命したブルーノ・タウトが「泣きたくなるほど美しい」と絶賛し、装飾を排した簡素な建築美はモダニズム建築の造形美にも通じるとして評価された。同時代の建築である日光東照宮と対比されることも多い。
京都御苑の北には桂宮家の本邸が今も残る。敷地の周囲は築地塀で囲まれており、表門と勅使門の二つの門が残る。内部には、桂離宮同様に智仁親王が造営した庭園と池が残る。
建物群は明治時代中期に二条城に移築されてしまっており、現在その場所には宮内庁職員の宿舎が仮に建っている。
近年、同じ宮家である閑院宮邸が整備後一般公開されて話題を呼んだことから、桂宮邸もそうすべきだとの意見がある。ちなみに閑院宮邸の庭園および建物群も以前は環境省が使用しており、非公開であった。
約1万坪の敷地を誇り、舞踏会場、音楽堂、美術館、接見室や図書館等が設置されている。部屋数は、スイートルーム19、来客用寝室52、スタッフ用寝室188、事務室92、バスルーム78である。宮殿に勤務する人は約450名、年間の招待客は4万人にもなるという。王族たちを補助する侍従50人は同じ宮に住み込み、その他の侍従達は王室厩舎であるロイヤル・ミューズ(Royal Mews)に寄居する。
宮殿正面広場には、ヴィクトリア記念碑が建立されており、その向こうではセント・ジェームズ・パークとトラファルガー広場につながるザ・マルが、生い茂ったプラタナス並木に沿って位置している。
現在では、7月26日〜9月24日の間に限って一般入場が可能となっている。入場料はウィンザー城を修復する為の費用に充てられている。
1703年に、バッキンガム公ジョン・シェフィールドが自らの邸宅として桑畑を購入して建てたバッキンガムハウス(Buckingham House)が始まりとされる。当初は煉瓦のみで建てた非常に粗末な邸宅に過ぎなかったが、1761年にジョージ3世が、王妃シャーロットと子供達の為に譲り受けて私邸として使うようになった。
引き続き王位に上がったジョージ4世は、建築家ジョン・ナッシュの忠告によって、煙瓦造りだったバッキンガムハウスを1825年から12年かけて全面改築に着手、それまでルネッサンス様式だった建物をネオクラシック様式に改装したが、当のジョージ4世は王宮の完成を見ないまま死去した。
1837年にヴィクトリア女王の即位の際にセント・ジェームズ宮殿から移り住み、以後バッキンガム宮殿はイギリス王室の公式の宮殿となった。
1913年にザ・モールと直線で繋がれた建物とバルコニーが建設され、このバルコニーが祝日になれば王室一家が国民の前に姿を見せる場所となっている。
因みに、宮殿の屋上に王室旗が掲げられている時は女王もしくは王が在宅、イギリス国旗なら不在を示している。
近衛兵による交代儀式イギリスの名物と同時に重要な観光イベントである衛兵交代式は、4月から7月までは毎日1回、他の月では2日に1回ずつ午前11時もしくは11時30分(日曜日は10時。大雨の日は中止)に行われる。近衛隊はグレナディア(Grenadier Guards)、コールドストリーム(Coldstream Guards)、スコット(Scots Guards)アイリッシュ(Irish Guards)、ウェルシュ(Welsh Guards)といった5つの部隊で構成されている。特に王の誕生日に挙行される最も派手な交代式を、トルーピング・ザ・カラー(Trooping the Color)と言う。
ウェストミンスター宮殿のおかれているテムズ川河畔は中世を通して戦略上の要衝であった。すくなくともアングロ・サクソンの時代には既にこの地に何らかの建物が建設されていた。ソーニー・アイランドとして知られるイングランド中世にはカヌート王によって初めて宮殿として用いられるようになり、サクソン王朝の最後から2代前の王エドワード懺悔王はシティ・オブ・ロンドンの西、ソーニー・アイランドに宮殿とウェストミンスター寺院を建設した。時代が下るとこの周辺の地区はウェストミンスター(Westminster) と呼称されるようになった。これは西方の修道院 (West Monastery) の省略形であると考えられている。1066年のノルマン・コンクエスト時にはウィリアム1世は一時ロンドン塔を自身の住居として定めたが、後にウェストミンスターへと移っている。これらサクソンやウィリアム1世により使用された建築物は現在残っていない。宮殿における最古の部分は次代のウィリアム2世により建造されたものである。